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世界の小麦を育てた日本人の物語

「NORIN TEN~稲塚権次郎物語」 1960年代、世界の食糧危機が起こった時、インドやパキスタンの人々を飢えから救った小麦があった。 その小麦の基となったのは「NORIN TEN」(小麦農林10号)と呼ばれた、日本人が育種した小麦だった。
「NORIN TEN」を作ったのは、育種家 稲塚権次郎(1897~1988)。 今から80年前、昭和10年岩手県立農事試験場で育てられたのである。 この物語は、今では世界の小麦の70%以上の基となった「NORIN TEN」の育種者、稲塚権次郎の愛と苦悩と葛藤を描きます。 そして大正から昭和に至る時代背景とふるさと(現在 富山県南砺市)の美しい自然が舞台となりました。


あらすじ

明治末期、富山県城端町の貧しい農家の長男に生まれた権次郎は、向学心に溢れ、富山県立農学校(現在の南砺福野高校)を首席で卒業。 「種の起源」(ダーウイン著)と出会う。農家を救うためには、美味しくて収量の多い米を作ることが必要と考え、東京帝国大学農学実科に進学。


大正7年農商務省に入り、秋田県大曲にある陸羽支場で、「陸羽132号」そして「水稲農林1号」の育種に取り組む。 権次郎は生真面目な性格で、周囲に溶け込めなかった。上司の永井の勧めで「謡」を習い、生涯の伴侶となる佐藤イトと出会う。 一目ぼれした権次郎は、ふるさと西明で祝言をあげた。大正15年、突然岩手への転勤を命じられる。 岩手は小麦の育種が主流、稲の研究成果は、新潟農事試験場の並川に受け継がれ、「水稲農林1号」は「コシヒカリ」となる。 稲の育種の機会を奪われた権次郎だが、小麦増産が国家的プロジェクトと知り、岩手県農事試験場に移り次々と小麦の新種を開発。 昭和10年秋、小麦農林10号=NORINTENが完成した。特色は半矮性、従来の小麦に比べ、背の低い品種で穂が倒れにくく、栄養が行きわたりやすかった。


昭和13年、権次郎は華北産業科学研究所(北京)に異動。イトも同行した。昭和20年、敗戦、中国側の意向により、2年間留め置かれた。 戦争末期の混乱から、イトが精神的に錯乱を起こした。昭和22年秋帰国。権次郎はイトとの穏やかな生活を選び、金沢に赴任した。 定年後は地元の農家のために、圃場整備に力を注いだ。昭和50年頃、思いがけない知らせが届く。 「小麦農林10号」の種が戦後米国に送られ、世界の食糧危機を救う基になったのだ。 昭和48年最愛の妻イトが亡くなると、野焼きで見送った。「妻イトには中国で大変な労苦を掛けてしまった」と悔やんだ。


昭和56年、ノーマン・ボーローグ博士と対面。 世界の小麦を変えた二人が手を握り合った。

昭和63年12月7日、稲塚権次郎死去。享年91


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